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自然法爾 (じねんほうに) 

徳山寺前住職 藤原幸章

親鸞聖人が、晩年、説かれた教えに「自然法(じねんほうに)」という言葉があります。浄土真宗の救いをこのような言葉に表してくださったものです。けれど、「自然(じねん」も「法爾(ほうに」も平素あまり耳慣れない言葉かと思います。
これは、如来のはたらきが、私たちのはからいや分別を超えて「おのずから」私の上に現れてくださることを言います。だから、他力とか、本願力ということと同じ意味、内容なんだといただいてよいのです。しかし、難しい内容でもありますので、このことを少しくだいてお話したら、こんなことになるのではないかと思うのです。

自然(じねん)」という文字は、普通は「しぜん」と読まれています。天然自然という場合の「自然」です。火をたけば炎は空にのぼり、水は必ず低きに流れる。これは天然自然であって、人間のはからいでは、どうにもなるものではありません。だから人間は、この自然の道理にらわずに、素直にこれにしたがってきました。その結果、例えば水の力によって水車を回し、また電気をおこして日暮しを豊かにする道をあみだすことができました。思えば、水の恩恵一つをとっても、どれほどのおかげをこうむってきたか、り知れないものがあります。

 今年の冬は異例の厳しい寒さでした。雪害のためにたくさんの人が命を失うような悲しいできごとも発生しました。しかし、どんなに寒くても、いつまでも続くものではありません。今や百花繚乱の春がついそこまで来ているのです。そうして春の向こうには、今度はギラギラと照りつける真夏が待ちかまえています。しかし、それもつかの間、すぐに秋がきて、再び寒い冬が来てしまいます。アッという間の一年です。これは、人がそうしているのではないのです。天然自然のなりゆきです。春夏秋冬の巡りゆきは、全く人間のはからいを超えている。今が寒いからと言って、真冬を真夏に変えることはできません。その時が来るまでは、自然のなりゆきにまかせるより手はないのです。下手に手出しをすると、とんだとがめを受けなければならないことは目に見えています。


 このことを思い合せますと、まことに自然(じねん)というは、もとよりしからしむるという」(末燈鈔)ことであって、どうしなくても、ひとりでにそうなってくる。このことと同じなのです。

「信は願より生ずれば、念佛(ねんぶつ)成仏(じょうぶつ)自然(じねん)なり」善導和讃(ぜんどうわさん)にあります。この「願」というのは、こちらから一生懸命になって願をかけるというように思いがちなのですが、そうではないのです。如来の方からまこと願いをかけられているのです。煩悩具足の私たちからは、ただ煩悩いっぱいの欲しか出てきません。私たちがかけをするのではなく、願のかけては如来の方であったのです。いのちある限り煩悩具足に変わりがないわが身、この身に対して、「無上仏にならしめん」という誓いが、本願が、如来のほうからかけられているのです。

「無上仏にならしめん」と、ここまで深い願いを私どもがかけられている。そのことを知るならば、もはや私たちとしてはただ一つ、この如来のお誓いにまかせまいらするよりほかの道はないのです。たとい別の道があったとしても、正直なところ全く歯が立たない、碍りだらけのこの身なのです。それは真冬を真夏に変えようというがごとき、無理な思惑(おもわく)なのです。私どもは、すでに一人一人が如来の願いの中に生かされているのであり、真実の祈りのうちにおかれている身なのです。今日というこの一日、ただ恵まれて生きているわが身を喜ばさせていただくのみです。

 したがってあちらの神様に願をかけ、こちらの仏さまのご機嫌を取り結ぶ必要もさらさらありません。いわんや(たた)りだ、お(さわ)りだとびくびくすることもいらなければ、方位だ日柄(ひがら)りだと気にむことも全くいらない。日々がそのまま好日であり、人生に厄年はない。念佛者は、あるがままの今日を、摂取のうちに悠々と生かされゆくだけであり、光をぎつつりなき大道をしっかりと踏みしめさせていただくのみであります。「門徒もの知らず」といわれるほどに、碍りもなくおそれもなく、自由で独り立ちした人生がひらかれてゆくのです。これを「自然法(じねんほうに)」の宗風というのです。